私の家には、「倚りかからず」という詩集が2冊あります。
1冊は、単行本(1999年発行)。
もう1冊は、文庫本(2007年発行)。
「倚りかからず」は、茨木のり子さんが73歳のときに出版された詩集です。天声人語でも触れられて、ベストセラーになりました。
なぜ2冊あるのかは、自分でもよく分かりません(苦笑)
本棚を整理しているときに、たまたま気づいて、我ながら驚きました。
2冊目を買ったときに、1冊目がすでに家にあることを、うっかり忘れていたのかもしれません。もしくは、とてもお気に入りの詩集なので、わざと重複して買った可能性もあります。
忘れていたのか、わざとなのか。
今となっては記憶が定かでないのですが、いずれにしても2冊あって嬉しいと思える詩集ですね。両方とも宝物です。
前置きが長くなりましたが、「倚りかからず」という詩集を紹介しますね。
茨木のり子さんは、独り暮らしを長く続けていた。
私がこのブログでこの詩集を紹介したいと思ったのは、茨木のり子さんがまさに「おひとりさま」だから。
その詩には、ひとりで生きていくためのヒントが隠されています。
茨木のり子さんは1975年、49歳のときに、最愛の夫に旅立たれます。
それ以降、31年間も独り暮らしを続けました。
国語の教科書でもよく見かける、「自分の感受性くらい」という詩は、独り暮らしをはじめてから2年後に書かれた詩です。
孤独な環境から立ち上がってきた詩と思うと、今までとは見方が違ってきませんか?
自分の感受性くらい (一部部分)
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
「倚りかからず」の潔さ
私の家に2冊ある「倚りかからず」は、先ほども書いたとおり、茨木のり子さんが73歳のときに出版されました。
長い、長い、独り暮らしの果てに、実を結んだ詩集です。
倚りかからず (一部引用)
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
詩集のタイトルにもなった「倚りかからず」という詩。
あまりの潔さに、自分の背中もピンと正されるような思いです。
「行方不明の時間」は、しがらみから離れる時間。
最後に、「行方不明の時間」という詩を、全文引用しますね。
(単行本には未収録で、文庫版のみに掲載されています)
行方不明の時間
人間には
行方不明の時間が必要です
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ遠野物語の寒木戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
ただちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
<すぐ戻れ>や<今 どこ?>に
答えるために遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり圏外であったりすれば
絶望はさらに深まるだろう
シャツ一枚 打ち振るよりも私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
無意味であり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸い込まれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へさまよい出る仕掛け
さもすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ
茨木のり子さんの詩を読み返して、改めて感じたのは、孤独は敵ではないということ。
独り暮らしをしていたとしても、こんな風に行方不明になる時間は必要なのかもしれません。
インターネットが発達して、いつでもどこでも誰とでも、瞬時につながれる時代になりました。
それはとても便利なことではあるけれど、その反面、縛られてしまうと窮屈なんですよね。
私も自分の部屋でぼーっとしていたいときに、メールが立て込んでしまうと、正直隠れてしまいたい時があります。
かといって、外出したとしても、スマホを鞄に忍ばせている限りは、体のどこかが鎖でつながっているような気がします。
しがらみから離れる時間は、欲しいものですね。
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